2010年4月30日金曜日

ウルフマン


『狼男』のお話。
みなさんご存じのとおり狼に変身するのは、心理的な要因ではなく月の満ち欠け。満月の夜狼になると我を忘れてしまい、朝目覚めたらすっかり記憶がなくなっている。自分がしたことを反省したくても出来ない。であるからして、狂気や不安を表現するには十分な設定だけど、葛藤や苦悩など心理的な深みを出すのが難しい。そんな条件の中、ベニチオ・デル・トロとアンソニー・ホプキンスは最大限に彼らの力量を発揮、さすがと思うもこの狼男という設定で、最後の盛り上がりで残念ながら2人の演技を見ることはできない・・・汗)。ロバート・デ・ニーロの『フランケンシュタイン』を見たときも似たような感想だったなぁ。

R15指定には残忍さよりグロテスクな方が引っ掛かったのか。内臓がドバッ、首がコロリッ、だけれど不思議なことにこの映画は全然怖くない。 『羊たちの沈黙』みたいに何が起きるかわからない、という怖さではないからかも。よってアンソニー・ホプキンスの猟奇さもかなりマイルドになっている。

1941年制作の『狼男(The Wolf Man)』を70年ぶりにリメーク。CGの発達は監督のイマジネーションをそのまま映像にできるから、作る側にとってはおもしろいのかも知れない。しかし、白黒の『キングコング』がカクカク動いたり、『十戒』のモーゼが海を開いたり、かなり嘘っぽいけれどCGよりストーリーをリアルに受け止められる私は古いのかなぁ。

ところでジェラルディン・チャップリンがジプシー役で登場しているのだが、あまりにもお父さんにいきうつしでたまげた。こちらはメイク、CGなしの本物。

2010年4月27日火曜日

タイタンの戦い

主役ペルセウスを『アバター』のサム・ワーシントン、ゼウスをリアム・ニーソン、ボルデモード・・、もとい、ハデスをレイフ・ファインズ。この映画はもともと2Dだったのを慌てて3Dにしたそうで、その点において不評をかったそうだ。81年制作、同タイトルの映画のリメイクで、私はオリジナルを見ていない。ローレンス・オリビエやマギー・スミス、ウルスラ・アンドレスがキャスティングされている。オリジナルと比べてみてみると面白さが増すかも知れない。

ワカ 「パーシー・ジャクソンの方が面白かった」
夫 (ただ一言)「Release the kraken!!」
私 「ゼウスの衣装、マグマ大使のゴアみたい。」
左>タコのお化けクラーケン 右>ゼウス

「私の名はゴア。」
毎回登場するのに、毎回丁寧に自己紹介する人

久しぶりにゴアを見たら、衣装はぜんぜん似てなかった。キラキラしていたイメージがあったんだけど。しかし当たらずといえども遠からず、実はこの監督、日本のアニメの影響を受けていた。そのアニメ、『聖闘士星矢』(見たことないけど)というらしい。調べてみたらこんなコスチュームだった。

2010年4月26日月曜日

ザ・カブキ

24日、20数年ぶりにオーチャードホールで東京バレエ団の「ザ・カブキ」を見た。ベジャールがこのバレエ団のために振りつけた作品で86年初演。音楽は黛敏郎さんの現代曲と浄瑠璃がうまくつながって、美しいコラボレーションを聞かせてくれる。忠臣蔵を元にゲイシャ、ハラキリと日本色満開の舞台。日本趣味のコンテンポラリーといってもクラシックバレエそのものの”パ”が多く、大石内蔵助役にはかなりの技量が求められる。24日はスタミナ不足でキレがなく、ちょっと残念だった。若干20歳というので、これからの活躍に期待しよう。

大石内蔵助というどっちに転んでも正真正銘の日本人。いくらベジャールの作品であろうがカリスマ性が必要であろうが、(昔の)パトリック・デュポンまたは生身のジョルジュ・ドンが踊る姿は想像に難い。西洋人ダンサーがちょんまげ(実際はちょんまげで踊るわけじゃないけど)を演ずるのは、明治維新後100年以上かけてやっと靴に慣れた日本人が王子様を演ずるよりも難しいのじゃないかな?(トムクルーズはやったけど・・・)。やはりここはひとつ日本人(もしくは東洋系)ダンサーに頑張っていただきたい。特に第1部は振付が美しいので、これを踊りきれるソリストが同時期に片手の数くらいは登場することを願う。第2部の男性群舞、日本人に適した良い意味での”マスゲーム的”な振り付けはさすが。群舞だけでなく、四十七士の数人が途中短いソロを踊るが、これも大変よかった。

2010年4月23日金曜日

久石譲さん「アバター」を語る <最終回>

「『アバター』を見た。監督自ら”もののけ姫”を参考にしたシーンもあると発言していたが、僕は”ラピュタ”も参考にしたと思う。・・・ジェームズキャメロン監督はおそらく宮崎さんに尊敬の気持ちを込めて引用したのだろう。

彼の特徴は『ターミネーター』のロボットや『エイリアン2』の地球外生物に感情移入させることができる演出にある。『アバター』のキャラクターも最初は気が引けたがすぐ感情移入できた。・・・ドラマ設定の時間と空間が多重になっていることも良い。・・・ただし登場人物は善と悪がはっきりしすぎていてドラマが平板。対立構造はわかりやすいが深みが感じられない。典型的なハリウッド映画だ。『アバター』を見終えた感想は、そんな単純構造を捨て映画を作り続ける宮崎さんの世界はいかにクオリティーが高いかということだった。

音楽はジェームズ・ホーナー、前回登場したジェルジ・リゲティに英国で師事する。…2時間42分のほとんどに音楽が付いているので、・・・こういう鳴りっぱなしの場合は音楽密度を薄くし劇となじませる工夫がいる。逆に音楽が少ない場合は瞬間の凝縮力(音の厚さではなく)が要求されるわけで、どちらも難しさは変わらない。

・・・一番気になったのはナヴィの世界のコーラスがエキゾティズムを出すため第三世界、特にアフリカ系の音楽をベースにしているのが音楽帝国主義のようで好きでない。エンターティンメント映画の場合、ストーリーで引っ張るケースが多いので音楽はそれに寄り添うしかなく、場面チェンジでの音合わせが多くなる。それぞれのシーンと主人公に音楽を対立させるようなこともあまりできない。速い話が『スター・ウォーズ』のダースベイダーのテーマのように登場人物につけることも多い。だからここには「音楽と映像の微妙な関係」は存在しない。」

前回久石さんが「アバター」について検証すると書かれて、今までの映画と方向が違うのでちょっと首をかしげた。しかし読んで納得、さらに私の疑問までも解決できた。 『グラントリノ』のとき、対極のものとして偶然にもジェームス・ホーナーとjジョン・ウィリアムズの音楽が浮かんだけれど、それに対するお返事をいただいたような(そんなわけないけど)。なぜこの2人の映画音楽がコイのか、キャラクターとして耳に残るのか、この解説でよくわかった。漠然とした考えが、きっちりと言葉になると気持ちいい。

さてこの連載の最後に「映画人も映画音楽も何か一つ心に響くものを見る人に伝えたいと思っている。わかりやすい(大衆性)ということと芸術性は共存することができるのではないか?と僕は考える。その答えを探しつつ、とりあえず今は中国映画の音楽を書いている。」

・・・すでに共存(もしくはそれ以上)させてしまっていると私には思えるのだけれど、いまだに答えを探してらっしゃるとは。正直に言って理解のツボにはまらなかった『ハウルの動く城』の中で、唯一くっきりと心にのこったメインテーマ曲を思い出す。そしてこれでいいのだ、想像力を働かせれば、と考える。またいつか映画について、映画音楽について久石さんの書かれたものを読んでみたい。

2010年4月21日水曜日

金婚式

両親の金婚式に、こどもたちでささやかなお祝いをした。50年って、長いのか短いのか。いろんなことがあったけど、家族が仲良く健康でいられるって、なんて幸せなことだろう。

2010年4月19日月曜日

月に囚われた男

監督、ダンカン・ジョーンズ。「第9地区」に続きまたまた見逃せないSF映画。

地球に必要不可欠なエネルギー源を採掘するため、月に送られたサム。ガーティというハルみたいな人工知能を搭載したロボットが身の回りの手伝いをしてくれるものの、家族を残して3年間たった1人で採掘作業を行うという契約。任務も残すところ2週間でやっと地球に帰還という時に、自分とまったく同じ顔をした人物が現れる。妄想か現実か・・・。どうも現実らしい。しかしどちらが本物のサムだかわからない。

ここから先は残念だけどネタばれなので黙る。主人公のサム役のサム・ロックウェルはすごい。ピチピチとボロボロ、似て非なる人間ををよくもまあここまで演じ分けられるというものだ。人道的に許されないことをされ、暴れても仕方ない状況の中、サムは最後まで優しい人間を貫く。ああ、ちょっとネタばれ、失礼。

またロボットのガーティは人間以上に人間的。ハルみたいに意地悪じゃない。 真ん中にピースのお顔がついていて、これが笑ったり困ったりする。かわいいし、正直だし、親切。このガーティはケビン・スペーシーが声を担当しているのだけれど、鼓膜に響くセクシーなナイスボイス。物まね好きなケビンさんのことだから、いろいろ考え てなさったに違いない。ここのところエイリアンやコンピューターのほうが、よっぽど人間らしく設定されている映画が多いような気がする。人間このままじゃいけないって、いろいろ皆が思っていることは万国共通なのかも知れない。

ダンカン・ジョーンズ監督はゾウイ君としてファンにはおなじみ(お母さんはAngelaさん、ウフフ)。この映画で父ちゃんの息子とは言われなくなることは確実とみた。とはいえ、DNAの中に「地球に落ちてきた男」が組み込まれていたのかな?

こちらは、ちょっと前の写真みたいだけど、あごの上げ方と歯の長さにパパの面影を見ることができる。

2010年4月18日日曜日

有馬稲子さんの「私の履歴書」

今月の私の履歴書は有馬稲子さん。
有名な方だし、映画も見たことがあるので勿論知ってはいるけれど、私の印象はむか~し見た「おからの華」で止まってしまっている。調べてみたら1974年の月曜夜10時から放送されてたので、リアルタイムでは見ておらず、おそらく夕方の再放送でも見たのかもしれない。主演は中村玉緒さんで、豆腐屋の主人が藤岡琢也さん、その息子が本郷功次郎さん、その恋人が有馬稲子さん。何が印象的だったかというと、藤岡琢也さんを除き、後の3人は高校生くらいの設定から演じていたのだ。本郷功次郎さん一体何年学生やってるのだろう、有馬稲子さんのおさげ髪といい、中村玉緒さんのギャクの入った田舎娘といい結構なインパクトがあった。

先週の有馬さんの「私の履歴書」には「おからの華」を見た時よりもインパクトがあった。ある監督との恋とその破局の物語だったのだが、彼女の子ども世代の私にさえその監督が誰だか容易に分かる。既にその監督は故人となってしまっているのだが、彼女の中にはまだまだいき続けているようだ。ここまで書くかと結構びっくりしたけれども、ある種の潔さも感じた。来週はどんな話が飛び出してくるだろう。

2010年4月16日金曜日

久石譲さん「2001年宇宙の旅」を語る

「わかりやすいということは決して良いことではない。難解な映画や音楽、絵画などに接したとき「これは何?」という畏怖にも似た疑問がおこる。だから頭を働かせる。わかろうとするからだ。あるいは自分の感覚を最大限広げて感じようとする。そこにイマジネーションが湧く。もちろん優れた作品であることが前提だ。何も大衆性を否定しているわけではない。その両方が無い作品に接する時間ほど無駄なものはないと考えるのだが、作る側としてはそのさじ加減が難しい。スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」はその答えの一つである。

・・・謎の物体「モノリス」をめぐる展開だが一貫した主役はなく各シークエンスも関連性に乏しくわかりづらい。・・・・ぼくは最初これは映画ではないとさえ思ったのだが、何度か見ていくうちに映像と音楽の関係性に圧倒され、今ではぼくの「名作中の名作」である。

・・・映画全体の音楽は15曲(メドレーは一曲として)で数は多くはないが一旦なり出すと長く使っている。その関係は映像につけるのではなくてむしろ映画自体を引っ張っていくエンジンのような役割だ。

・・・まず驚くのは宇宙航行にヨハン・シュトラウス2世の「美しき青きドナウ」を使っていることだ。無重力の漆黒の宇宙に浮いた宇宙船がワルツのリズムに乗ってあらわれたときは仰天した。・・・なんといっても衝撃を受けるのはジェルジ・リゲティの曲の使用である。20世紀後半のもっとも重要な現代音楽の作曲家だが難解である。・・・圧巻は木星と無限の彼方(異次元への突入)で15分にわたり流れる3曲ほどのメドレー。多くの監督が望む大衆性とはま逆の姿勢をキューブリックは音楽でも貫く

・・・決してわかりやすい音楽と映像との関係ではないが、そこには新鮮な「何?」が必ずあり、我々のイマジネーションを駆り立てるのである。」

この映画、他の映画とは一線を画しているとはわかるのだけれど、実は私、何べん見てもなんだかよくわからない。久石さんをして「難解な」ものなのだ、私のような凡人にはイマジネーションを駆り立ててくれればよし、としよう。そうと分かれば、ちょっとうれしい。それに、ず~っと考えていたら、ある日突然悟りが開けることだってあるかもしれないし。今回音楽に関しては大変重要な指針をもらったので、そこに注意して見てみよう。

天才は普通の人が畏怖の念を抱くような何かを、絵画で、音楽で、文学で表現する。キューブリックはそんな全てを拾い上げ、作品にしているのだなぁ。凡人の悲しさと気楽さを感じつつ、天才の孤独を想像してみる。

2010年4月14日水曜日

イカとクジラ

監督、ノア・バーム(2005年)。

 1986年、ブルックリン。父はスランプ続きで仕事がないけれどプライドは人一倍高い作家。母はニューヨーカー誌にデビューの奔放な新進作家。16歳の兄ウォルトは父に心酔、母の奔放さに我慢ならない。12歳の弟フランクは父のプライドがうざったく、何があっても母が好き。両親が離婚することになり、兄弟(猫ちゃんも)は共同監護という形で父の家と母の家を行ったり来たりの生活が始まる。やがて弟は学校で奇行を繰り返し、兄も盗作騒ぎを起こしてしまう。ばらんばらんのかみ合わない親子夫婦のブラックほどではないけれど、グレーなユーモア(?)で綴られた、決してカナシイだけではない物語。

父親の意見は至極まっとうで教養にあふれているはずなんだけど、Fワード連発、無職、という具合に現実とかみ合わない。母親もとりあえず思春期のこどもには言わないかな、と思うような浮気や恋人の話を包み隠さず話す。息子2人のことは観ていてつらい。 特に12才の弟の奇行には女系家族に育った私にはあ~んぐり。まだまだアオい兄の母親やガールフレンドに対する態度にも説教したくなる。観ている私の”同情”やら”親近感”やら”嫌悪感”は、4人の間を行ったり来たり定まらない。どこまでもあれれ?の家族だし、正直4人とも好きになれない。ところが、どの登場人物も軽蔑できないどころが、だんだん愛情さえ湧いてくる。脚本の妙。

父親は『愛と追憶の日々』というより『Mr. ダマー』のジェフ・ダニエルズ、母親は『ミスティックリバー』のローラ・リニー。2人とも見事にNYの知的階級の滑稽さを表現。チョイ役でアンナ・パキンとウィリアム・ボールドウィンがとってもいい味。そしてこの手の映画を見るたびにいつも思う「どこからこんなこどもたちを探してくるのだろう」と、実にうまい・・・。
 
決して心地よくない棘のある会話に落ち込んだり、笑ったり、落ち込んだり、落ち込んだり。全てが日常の出来事で、映画の終わりも昼寝で一日が途切れたように終わってしまう。しかし映画全編を何度も反芻させてくれるくらいの印象的なラストシーン。

2010年4月13日火曜日

九品仏浄真寺の桜

浄真寺は小田原の役後、廃城となった奥沢城の跡地に、延宝6年(1678年)開山。本堂の対面に3つの阿弥陀堂(上品堂、中品堂、下品堂)があり、それぞれに3体合計9体の阿弥陀如来像が安置されていることから九品仏と呼ばれている。10年ほど前、いろいろともめ事があって、境内の雰囲気は昔と少々変わってしまった。

九品仏界隈は石原裕次郎、芦川いづみ主演の『乳母車』のロケ地にもなった。昭和31年の映画だから、今の町並みとはま~ったく変わってしまっているけれど、浄真寺はそのまんまとはいわないまでもそれと分かる。4月頭に従兄弟のお墓参りを兼ねて花見に行った。

境内から山門方向を見る。まだ満開ではない。
こーんな立派な木が地上近くまで枝をたらして桜をたくさん咲かせている。
境内は桜でいっぱい。
上品堂の屋根をバックに。
九品仏は秋の銀杏も大変美しい。3年に1度の『お面かぶり』は来年8月16日。

2010年4月12日月曜日

第9地区

監督と脚本、ニール・ブロンカンプ。南アフリカ、ヨハネスブルクに突如宇宙船が出現し、そのまま街の上空に留まってしまう。宇宙船内のエイリアンは人道的手段をもって、難民として地上に移される。しかし人間とエビ(=PRAWN)に似たエイリアンの共存は難しく、宇宙船が停留してから20年が経った今、エイリアンはヨハネスブルグ市内の第9地区に隔離され、MNUと呼ばれる組織によって管理・監視されている。第9地区はスラム化し、ヨハネスブルグ市内の治安は悪化の一途を辿り、困った人間は郊外の難民施設にエイリアンを異動させることにした。MNUの職員であるヴィカスは新しい施設へ移動する同意をエイリアンから取り付ける最高責任者に任命される。同意とはいってもほとんど強制的で、ウムを言わさずサインをさせるか、言うことを聞かなければ暴力に訴え、酷いと撃ち殺してしまう。喜々として業務に励むヴィカスは、エイリアンの作った液体を自ら誤って浴びてしまい”何か”に感染してしまう。感染が広がっていくうちに思いもよらぬ困難が次々と襲ってくる。

この辺までは予告編からでも察しが付くけれど、こっから先はネタばれになるので黙る。1966年、当時の南ア政府がケープタウンの第6地区を白人専用地区に指定し、1982年に約6万人の人々を25km離れたケープフラッツに移動させた出来事がもとになっている。アパルトヘイトだけでなく、人間がエイリアンの居住地で武器を探し回る姿はイラク戦争を思い起こさせる。20年の間じーっと耐えながらその時を待つエイリアンのクリストファーはマンデラ大統領か。

ドキュメンタリータッチな画像と、(私たちにとって)無名な俳優の出演でリアル感が増大。CG技術は駆使されているけれど、演出家のイマジネーションを楽しむタイプの映画ではなく、本当にこんなことが起きるかもしれないと思わせるタイプ。『エイリアン』やクローネンバーグの『フライ』を見た時のあの新鮮な感動を思い起こさせる、正統派SF映画。絶対お勧め。

クリストファー親子、好感度大につき、しばらく大好きなエビが食べられなくなりそうなのは困った・・・。

2010年4月8日木曜日

久石譲さん「グラン・トリノ」を語る

”音楽と映像の微妙な関係”その2。

「・・・・これといった派手な仕掛けはなく淡々としているのだが細部に神経が行き届き、やたら感情を煽るでもないのだが深く感動させる。・・・それはいいのだが、大きな問題がある。音楽がヘタウマなのだ。よく言うと素朴、悪く言うと素人っぽい。白たま(全音符のこと)にピアノがポツポツみたいな薄い音楽が主体だから映像を邪魔するようなことはない。しかも監督自ら作曲することが多いので映像と音楽の呼吸感も見事なものだ。だがそれは両方兼業(特に近年)する彼にしかできないことで、修行を積んで来たプロの作曲家にヘタウマ風に書けといっても無理なのだ。この手の音楽が主流になったら大変・・・。

・・・・冒頭のクレジットに流れるメーンテーマはフレットレスペースのシンプルなメロディーでこの映画の要である。 正直ぼくはこの手の先の読めるメロディーが嫌いだ。・・・その後6シーンにわたって流れるのであるがだんだん良く聞こえてくるのである。とくにラストシーンではイーストウッド自身が1コーラス渋く歌いそのままジェイミー・カラムの歌でエンド・ロールにつながっているところが感動的なのだ。うまい、ちょっと参った。冒頭に流れたものがストーリーの進展とともに成長していくのである。これは誰も意識していないのに確実に感動を煽る。しかもイーストウッドの場合は下品ではない。むしろ抑制をきかしている分、映画全体の品格を上げている。

ピアノポツポツの曲が、全体を通してどのように進展してエンディングにつながっているなんぞ、素人はゼンゼン気がつかない。言われてみればその通りで、音楽を意識せずに静かに感動が盛り上がっていくのだ。それもお涙ちょうだいの感動の押し売りではなく。最後のイーストウッドの歌声には泣かされた。初めはガラガラ声で歌が始まったのに、グラン・トリノが風景の中を走り去っていくころには声が若くなり、あれれ?。”私でも”この部分はかなり印象に残った。で、映画と美しいメロディーに一目ぼれならぬ”一聞きぼれ”し、iTunesでこの曲を即買った。

それから、映画音楽にも”ヘタウマ”がある、というお話は新鮮な驚きだ。 う~ん、確かに、ジョン・ウイリアムズ(スターウォーズ、シンドラーのリストなど)やジェームズ・ホーナー(タイタニック、アバターなど)は音楽だけでキャラクターとなるくらい完璧で圧倒的だけど、確かにいろんな意味で”コイ”

久石さんは最後に「基本的には映像を邪魔しないものに主眼が置かれているのは『映像と音楽は対等であるべきだ』と考えているぼくにはやはり物足りない。」とも書かれているけれど、これを読んで、彼の音楽とイーストウッド監督のコラボレーションが実現してほしい!と思ったのは私だけだろうか。

2010年4月7日水曜日

超級星光大道 Whitney Houston

「超級星光大道」は「スーパースターへの道」とでも訳せばいいのかな。見たことないけれど、台湾の「アメリカン・アイドル」みたいな番組だと思う。
Youtubeで見つけたこの男の子。ヴィジュアルと歌がミスマッチなのが(失礼)マイナスに働くどころか、ますます彼の歌を際立たせているのはスーザン・ボイル並み。
タイトルをクリックしてちょっと音量を上げて見て下さいまし。

2010年4月5日月曜日

もうすぐ中学生

明日は入学式。
中学生になるんだなぁ・・。

春休み満喫中のワカ様、
「なんだか実感わかない。明日から小学生じゃないってことに。」

自覚を促すため、ちょっと大げさに言ってみた。
「そうよ、大人への第一歩!自分でいろいろ判断してやってかなくっちゃね。」

ワカ ちょっと考えて。
「・・・制服って着ていかなくちゃいけないの?」

やっぱし、あんま、自覚してないみたい・・・。

2010年4月4日日曜日

久石譲さん「ベニスに死す」を語る

日経夕刊で久石譲さんの「音楽と映像の微妙な関係」が始まった。究極の映画音楽解説である。

「(映画とふつうの音楽の違い)“ふつう”の音楽はそれだけで100%、映画なら映像と音楽を足して100%になるようにしています。理想は映像と音楽が100%ずつ発揮したうえで成立する映画なのだが、そんな不可能なことを可能にした作品をぼくは知っている。 『ベニスに死す』だ。 
(中略) 
もちろんマーラーがこの映画のために書いたのではなく交響曲第5番の第四楽章アダージェットとして書かれた名曲を使用しているので厳密に言えば映画音楽ではない。が、間違いなくここでは映像と音楽がたしあうのではなく、掛け算にしてみせて我々の度肝を抜くのである。
(中略)
冒頭の船のシーンを見るだけでわかるように、マーラーの切々とした孤高の音楽と画面の隅々まで神経を配った無駄のない映像が、晩節を迎えた老作曲家を通し人間というのもを、人が生きるということを描くのではなく深く体感させるのである
(中略)
原作では主人公グスタフ・アッシェンバッハは老作家なのだが、映画では老作曲家に変更している。しかも風貌を含めて限りなくマーラーのイメージに近づけていて追い打ちはマーラーのアダージェットなのである。この主人公がアダージェットの作曲家であるグスタフ・マーラーだといわんばかりなのだが、このイメージをだぶらせるような演出こそが最大のトリックであり最大の映画的効果なのである。ヴィスコンティ恐るべし。」

音楽と映像に鳥肌が立つくらい心打たれながらも、その気持ちをどうもうまく言い表せなかった。モザイクを組み立てるように、”老い”や”若さ”や”美”やそんな断片を作品の中から拾い集め、私なりにこの映画への思いを考える努力をしたのだけれど・・。そんなときにこの久石さんの一言で納得。説明できないことを”深く体感”させられていたのだ。答えを導いてくれた久石さんも、作曲だけでない、恐るべし。

それにしてもビョルン・アンドレセンは美しかった。当時の少女漫画に出てきた多くの美男子は彼がモデルだったのよ。

2010年4月1日木曜日

4月1日

3月末からのスキーキャンプに参加していたワカが帰ってきた。12月のコースがインフルエンザで中止になってしまい、待ちに待ったスキーだったので、さぞかし楽しかっただろうなぁ~、と土産話を楽しみにしていたら・・・。

ワカ 「(暗い顔)スキーのやり方忘れていて、どうしても思い出せなくって、初心者グループに入れられてゼンゼン面白くなかった。」
私 「えっ?・・・残念だったねぇ。で、ペンションはどうだった?」
ワカ 「それがもっと最悪でね、ゴハンはまずかったし、ペラペラの布団だったし、古かったし。」
私 「・・・・・。」 
・・・ガッカリ・・・
ワカ 「あはは~!エイプリール・フール!」

ほんと~に、だまされた。いつも私やワカをだましては面白がっているオットも、引っ掛かっていた。ウヮッハッハ・・!しかし、あの不満げな顔と言い、セリフの長さといい、絶妙。もう少しウダウダが続いていたら、「自分から行きたいって言ったのに、文句言うな!」と怒られる羽目になっていただろう。よく成長したなぁ。感心しているバヤイではないが。がっかりした分、喜々としてキャンプの話をする姿は”行かせてよかった感”を倍増させてくれた。ここまではさすが計算してかったとは思うけど。